Artist

芸術会議 〈アートは出会いである編〉

自分が10月18日の交流会でお話をしたことに、何人かの方から反応をいただいたので、こちらのブログではその注釈と、常陸太田アーティストインレジデンスに対する自分の思いを少しばかりを書かせていただきたいと思います。

私は10月4日、津田さんと同じ電車に乗って常陸太田に降り立ち、そこで初めて津田さんと「遭遇」しました。お互いのことは何も知らない。それでも、ひとつ屋根の下で共に作業し、同じ部屋で寝食を共にすることを10日間続けました。お互いに自分のことを話すことは稀で、するのは菊池さんの家の展示のこと、常陸太田であった発見のこと、そしてアートのこと。ぼくは津田さんの作品のことは知っているけれど、正直津田さん自身のことはよく知りません。だけどいつの間にか、二人の間には親しみや、連帯感が生まれていたとぼくは信じています。そして、それを象徴的に実感したのは、10月17日、展示の設営を終えて一旦解散したぼくと津田さんが再び同じ常陸太田行きの水郡線に乗り、「やあ」と声を掛け合った瞬間でした。ああ、そうか。これがアートなのだと、不思議に腑に落ちた気がしたのです。

常陸太田芸術会議

現代においての芸術作品とは、「わからないもの」だと思っています。どんなに言葉を尽くして作品について説明をされても、やはりそこにはわからなさが残る。そしてそれは、「他者」のわからなさに極めて近い。私はどこの生まれで、こういう仕事をして、こんな人だからと自己紹介をされても、もしくは第三者にあの人ってこんな人だよねと説明をされたところで、それらは人間の本質的な部分を全くと言っていいほど説明していない。やはりそこにはわからなさが残る。それを理解するためには、その人物と実際に時間を共にし、肌でその人を感じるしかないのだと思っています。それでも、その人間を理解したと言うのはおこがましいかもしれません。けれどもわからないなりに当人の間には親しみや愛着が生まれます。もしくはどうにも好きになれない、となることもあるかもしれません。

“Art is a state of encounter”(芸術とは、出会いの過程である)とはフランスのある有名な美術理論家の言葉です。この人の、アートは作品そのものではなく、そこから始まる関係性のことであるという言説(かなり大雑把な要約ですが)は90年代以降の現代美術の流れに多大なる影響を与えました。この一節の意味するところを本当の意味で理解ができたと思った瞬間が、あの津田さんとの「やあ」の瞬間だったように思います。

現代美術館に行ったことのある方なら誰しもが、作品かどうかさえよくわからない物体を目の前に途方に暮れた経験はあると思います。そんな時はまず作品から一歩距離をとって、「おやおや、これはまた随分なオテンバ娘ですね/暴れん坊ですね」とでも心の中でつぶやいてみてください。そして、ゆっくりと作品を観察し、作品との対話を試みてほしいと思います。作家が一生懸命に練って産み落とした作品である以上、その中に語りかけるものは必ずあるはずです。それを理解できなくても是非感覚を開いて「感じて」ほしいと思います。

つまり作品を鑑賞するということは作品に出会い、そのわからなさに付き合うということ、そしてその「わからなさ」に付き合うということが、ひいては「わからない」他者と付き合い、その声に耳を傾け、尊重する力を育むことにつながるのではないか、と私は信じています。

常陸太田芸術会議

現在、アートを使った地域おこし事業は、日本各地で行われています。そして、それは必ずしも一様に成功しているとも言えないという話も聞こえてきます。実を言えば、自分もその効果に対して懐疑的な人間の1人でした。年間予算を組んで行われる役所の事業と、必ずしも経済的な利益に還元されることのないアートという領域があまりにもかけ離れすぎているのではないか。また、純粋に「地域の利益のために」という思考回路になってしまった途端、アートの持つ言わば批評的な側面は失われてしまうのではないか。それはもうアートとは呼べないのではないかと。アートは時に人を当惑させ、迷惑をかけるものであったことは美術史からも明らかです。

けれども実際に自分が常陸太田に滞在してみて、必ずしもその批判は的を射ていないかもしれない、と思うようになりました。「アート」という1つの専門を持った若者が、ゆかりのない地域に長期滞在すること。そこの地域の方々と草の根レベルで繋がりを持ち、地域に既にある営みから学んでいくこと。その中で、地方に生きる1人の作家として自分には何ができるかを模索し、表現行為で実際に現実への介入を試みること。そしてそのありさまを地域の方々に見せること。その一連の過程の持つ創造的な可能性は、その作家を見守り、手助けをしてくださる地域の皆さんにとっても、そして作家本人にとっても、計り知れないものがあるのではないかと感じるのです。そしてそれが結果的に、なんらかの形で地域がより活性化されるトリガーになることを期待するようにもなりました。また遠くから常陸太田AIRの活動を見守っている限り、そのような変化はすでに起きつつあるのではないか、とも思っています。

結果として出来上がったものが、それはアートではない、という批判に晒されることもあるかもしれません。それは確かに、大学や美術館、コマーシャルギャラリーを中心に作られた制度的なアートの牙城を守るためには、非常に大切な批判なのかも知れません。アートは他のあらゆるものと自らを区別することによって、その存立根拠を守ってきたからです。しかし私が今回の常陸太田の滞在で目の当たりにしてきたものは、まさしくその制度的なアートが掬いとることのできない、その枠組みでは括ることのできない「非アート」な作品や営みの持つ面白さや爆発力、都会を中心とした所謂「中央」でつくられる既存の「もののあり方」に対するカウンターのメッセージに他なりません。その面白さに目を開いた瞬間、それ自体が「アートか、非アートか」という問いが、いかにアート自身のためだけの小さな問いであるかに気がつくはずです。
こうして見てきたように、アートを日常の中で再構成をするという試みは常に「アートと非アート」を行き来することであり、それを突き詰めていけば、アーティスト本人を育んだ、大学を含む制度としての「アート」の土壌すらも切り崩そうとする行為なのかもしれません。そこにはアーティスト自身のアイデンティティをめぐる葛藤も伴うかもしれませんし、周囲の方の理解とサポートも不可欠かと思われます。しかし、私はそれが切り崩された地平にある表現が、地域とともに存在する姿を見てみたい。そしてその表現を得たアーティストが、レジデンスを離れた後にどんな活動をしていくのかを見届けたい。そんな思いを胸にこのブログを書き終えようとしています。

常陸太田芸術会議

親身にご協力いただいた菊池さんご夫妻を始め、陶水会の方々、水府の地域の方々、NPO法人結の方々、現場を支える役所の方々、大工の菊池政也さん、そして声をかけてくれたミヤタさん、滞在アーティストの林さん、なるさん、ゲストの津田さん、東山さん、仲田さん、そして何より菊池サクおばあちゃんと昇さん夫妻に最大限の感謝の気持ちと敬意を表し、この長々としたブログを閉じようと思います。常陸太田で過ごした一瞬一瞬が自分にとっての財産です。また近いうち、良いかたちで皆さんに再会できるのを心待ちにしています。本当にありがとうございました。

巻末に、自分が展覧会のオープンに寄せて綴ったステイトメントを掲載します。サクさんの作品との出会いによって、この展覧会の方向性が決定し、導かれるかのように展示構成も決まっていったことから、展覧会の象徴としてのサクさんの作品に焦点を当てて書かせていただきました。未見の方は、そちらもどうかご覧いただけたら幸いです。

芸術会議 〈展示編〉

常陸太田芸術会議で、水府に滞在をしていた頃から、早いもので既に4ヶ月が経ちました。津田さんと東山さんの立て続けのブログのポストを見て、やばい!と思って急いでこの文章を書いております。

昨年の初夏に大学院で課題に追われる日々を過ごしていた折、以前から親交のあったミヤタさんから常陸太田のレジデンスの一周年の成果展にキュレーターとして関わらないかというお話をいただきました。東京では現代美術のフィールドの片隅で仕事をしていたものの、大学院では美術とは直接関係のない研究をしていたため、自分で良いのかという戸惑いがありましたが、聞けば、展覧会はある方の個人宅だった場所で開催され、芸術の日常生活における再構成をテーマに掲げるとのこと。そんな普遍的で挑戦的なテーマを目の前に好奇心が勝り、お話を快諾させていただきました。

とは言うものの、学校の関係で帰国できたのが9月初旬、9月中は他の事業のお手伝いで慌ただしく、結局常陸太田に初めて訪れることができたのは9月末になってからでした。それまで事前の打ち合わせは特になし。日が近づくにつれ、漠とした不安が募っていったのは事実です。まして、キュレーターとしての参加という話を聞いていたけれど、展示をする作家はすでに決まっている。自分はこの企画にどんな風に関わればいいのだろうか、そんなことを考えながら水郡線に揺られ常陸太田に向かいました。

展覧会の会場となった『高台の菊池さん家』を初めて訪れた時のことを今でもはっきりと憶えています。家主を失った後、建具と畳の一部はすでに取り外され、がらんどうになった日本家屋。敷居の内側に足を踏み入れてみれば、ところどころ床板は腐り、危ない思いをする箇所もしばしば。その中の壁や床の間にどこか寂しげに残されたいくつかの掛け飾りや置物。そしてそれとは全くの異彩を放つ家主のお一人であったサクさんが作ったカラフルな吊り飾り。室内全体を覆う暖かくもどこか枯れたような空気感と、ビビッドな色彩と複雑な構造をもつサクさんの作品たちとの対比。その不思議な関係性。

常陸太田芸術会議

常陸太田に滞在を始め、本格的に展示構成を始めたのが10月4日。そこでゲスト作家の津田翔平さんと初めて顔を合わせました。「あれ、なんだかお互い似てますね笑」とはにかみ合う初対面。その後もう1組の主役と言える地元の陶芸クラブ、陶水会の方々との顔合わせを済ませ、作品を拝見しました。その後、空間全体を作品化することを得意とする津田さんを中心に大まかな会場構成と展示方法が決まり、次の日から展覧会のオープンに向けて設営が始まりました。

始まったのはいいものの、滞在作家、ゲストも含め、この会場に関わる人間でモノを作らないのは自分だけ。その中で自分のプレゼンスをどうやって発揮したら良いのだろうか。自分がここに関わる意味とは何なのか。そんな問いが自分の頭の中にもやっとした陰を落としていました。一方では、よく来てくれたと歓迎してくださる地元の方たちがいらっしゃる。でも会場に入れば非作家としての自分の立ち位置をいまいち見つけられず、果たして自分に貢献ができるのだろうかとモヤモヤ模索する日々。

そんなモヤモヤが晴れたのは、会場となった『高台の菊池さんの家』のお隣に住むサクさんの息子さん夫婦、菊池覚さんと菊池政子さんの玄関先でお昼ご飯をいただいた時だったと思います。その日は、高台への斜面に作られた菊池さんの畑に、近所のお仲間が草取りを手伝いにいらっしゃっていて、そのお返しに政子さんがおにぎりやけんちん汁を振る舞っていたのでした。そこに、私と津田さんは混ぜていただきました。
その食事の優しい味が本当に身に滲みました。そしてご飯が終わった後、また淡々と畑仕事に戻られる皆さんの後ろ姿をみてはっとしました。

常陸太田芸術会議 常陸太田芸術会議

新しい苗を植えるために草取り作業を必要とする菊池さんご夫婦がいる。それを当然のように手助けするご近所の皆さんがいる。そしてまた当然のようにそのお礼としてご飯を振る舞う菊池さんがいる。
そこで皆さんは、自分のプレゼンスがどうとか貢献がどうとかそんなことは関係なく、やるべきことを目の前にして、それぞれが自分の出来ることを粛々としていらっしゃる。それはまるで、皆さんそれぞれが欠けたピースへと形を変えて、一枚の絵を完成させていく作業。絵を作っていく過程には笑いや他愛もないおしゃべりがあり、完成させれば当然のように充実感がある。
そのシンプルでとても尊い地元の方々の営みを目にしたとき、ああこれでいいのか、と素直に思えました。対して自分は、人のお宅に土足で上がり(もちろん実際には靴は脱いでいましたけど笑)なにを頭でっかちに西洋の美術館で出来たキュレーションなんて制度を持ち込もうとしているのだろうと。キュレーターだかコーディネーターだか知らないけど、そんな立場はとりあえずどうでも良いか。ここにはここのやり方があるはずだ。まずはミヤタさんの直感を信じて、この場が回るように自分もピースになろう。そのために、どのピースが欠けているのかに目を凝らそう。そして自分の体力と少しの知識と経験をそこに注ごうと、肚をくくれました。

その態度は、津田さんが会場に入るまで何一つ作品の用意をせず、会場の環境や空気を感じてはじめて作品の構想を練り始めること、そして東山佳永さんがしきりに口にしていた「場所の声を聞く」という制作態度に通じるところがあるのかもしれません。それは言ってみれば、描いた絵を現場に持ち込んで無理やりに額縁にはめるのではなく、額に合わせて絵を描く行為。

常陸太田芸術会議

そんな風に肚はくくれたものの、それで全てがうまくいくほど甘くはなかったのもまた事実です。一つ問題が解決したら、また違う問題が立ち現れる。その繰り返しでした。それでもどうにか開催にこぎ着けられたのは、問題に当たる度に、会場設営に関わる人間の中でああでもないこうでもないと話し合いの場を設けたからだと思います。視覚的効果に関わることは津田さんやミヤタさんに、そして技術的、強度的な問題に関しては大工の菊池政也さんに遠慮なく相談させていただきました。

本来であれば関わった全ての展示箇所に対して触れていきたいのですが、あまりにも長くなってしまうので、自分が最も苦心した、地元で活動されている陶水会の方々のたくさんの作品をいかにして見せるかというポイントについて詳しく書かせていただきます。

様々な種類の陶器をご提供いただいたので一般化はできないのですが、人の手によってこねられた陶芸の持つ独特の丸みや渋く優しい色味、なにより使うことを前提に作られた「用の美」は、もとは個人の生活空間であったこの展示会場にあまりにも自然に馴染んでしまいました。それは一見良いことのようにも思われますが、それでは私たちが展示を構成する意味がないだろうと。日常性と芸術との境界を問題にする展覧会をする以上は、普段日常の生活の中に溶け込んでいる陶芸作品を、見たことのない視点から眺めていただく機会を作りたい、と思ったのです。

常陸太田芸術会議

つまりそれは、既に非日常性を伴う津田さんの作品やサクおばあちゃんの作品をいかにこの生活空間に馴染ませるかという問いとは全く逆のベクトルの問いといえます。いかにこの陶芸作品たちを日常の文脈から引き剥がし、純粋に「もの」としての質感を際立たせて、それを鑑賞していただくか。津田さんの作品は、元々空間に違和なくおさまっていたものたちがそこから切り離され、もう一度それが空間ごとオブジェとして再構築されることによって成立する。そして同様にサクおばあちゃんの作品は日常的に目に触れる様々なテクスチャを持った大量生産品が作品として一カ所にぎゅっと凝縮され、そこに複雑な構造が内在されることで作品として強度あるものになっている。つまり誤解を恐れずに言えば、二人の作品はこの日本家屋に存在すること自体がすでに「変」なことなのです。でもだからこそ、鑑賞者は注目をする。作品として注意深く眺める。あとはそれぞれの世界をどう繋ぐか、を考えればいい。でも、陶水会の方たちの作品はそれとは違ったように思います。観る者が注意深く観察するためには、あまりにも展示空間の持つ世界観と親和性が高すぎる。そこで単に並べるだけの展示をしてしまったら、それは「再構成」ではないだろうと。

そこで考えだされたのが、津田さんがよく使うというLEDライトで陶芸作品を照らすと言う展示方法。場所はいろんな模索を経て、東山さんの鶴の一声によって、あの空間の中で唯一暗さを確保できる衣装部屋に。部屋を暗くすることで空間内の作品以外のあらゆる要素を捨象し、小さなライトで作品の一点だけを強調をすることによって、観る者は研ぎすまされた感覚を凝らしてそれを眺め、味わってくれるだろうと考えたのです。作品の選出は、その展示空間に合った作品をと、ミヤタさんとああでもないこうでもないと言い合いながら何時間にも及びました。展示が終わった今となってはその効果がうまく行っていたことを願うのみですが。

常陸太田芸術会議 常陸太田芸術会議

そんな具合に模索を経て展示の準備は進められ、最終的にじょうづるさんたちの部屋を作り終わったのが展示オープンの日の朝。最後までバタバタでした。しかし準備を終えてみれば、全てがそこにおさまるのが決まっていたかのように空間全体が不思議な調和を生み、安心感をも感じさせるものとなったと思います。

展示が始まってから一週間という時間は本当にあっという間でした。週末は、自分自身も1人の参加者として仲田さんのワークショップを楽しみ、次の日は東山さんの丁寧に作り上げられたパフォーマンスに心を揺さぶられました。(東山さんが舞う場面では、色んな思いが重なって涙がポロポロ流れてしまいましたが、隣を見たらミヤタさんがもっと泣いていました笑)そうして、この常陸太田でのかけがえのない日々は幕を閉じました。

常陸太田芸術会議 常陸太田芸術会議
 
後半〈アートは出会いである編〉に続く

写真について話をしよう

縁あって、茨城県常陸太田市にて「写真」のワークショップをすることになった。
「ヒタチオオタ芸術会議」というイベントの一環として、私によるワークショップを開催したいとのことだった。最初にミヤタユキさんにワークショップの話を聞いたとき、「やりましょう!!」と即返事をしたが、実はそれから数日間、えも言われぬ不思議な気分と共に過ごしていた。
「このえも言われぬ気分はなぜ起こっているか?」
「ワークショップとはなにか?」
まずはそこから考えることにした。
私は、「ワークショップ」というものを、その専門分野の人が参加する人に何かを教える教室のようなものだと思っていたようで、そのことが、このえも言われぬ気分を引き起こしていたのだと腑に落ちた。
私自身、2011年に水戸のキワマリ荘という場所で行われていた、「写真ワークショップ 松本美枝子のキワマリ荘の写真部」というワークショップに参加したことが大きなきっかけとなり、いまもこうして「写真」を追いかけている。
当時のワークショップの中で松本さんは、このワークショップは自分のためにやっている、と言っていたが、そのことが、こうして自分がワークショップをすることになってみて、わかったような気がした。

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ワークショップ当日には9名の方が参加してくださいました。
一人一枚持参していただいた写真を集め、シャッフルして、再び配り、
手元にやってきた写真について「写真を読む」作業をしていただきました。

写真について話をしよう

ここはどこ/誰/いつ/撮影者は/撮影者との関係は?
みなさんが写真のどこを見て、何を感じ、どんな解釈をするのか。
そこからどんなズレが生じるのか。
写真の見方はもちろん人それぞれ自由ですが、
今回のように、覗き込んで考えを巡らす見方をすることで、
写真の一つの面白さを感じることができるのではないかと思い、
このような内容のワークショップをすることにしました。
ワークショップでは、さまざまな写真が集まり、見たり、想像したり、書いたり、言葉にして発表をしたり、あっという間の2時間でした。
中には、写真の持ち主が驚くような、探偵のように鋭い観点から写真を読みとく方もいたりして…とても盛り上がりました!(ほっ)
最後に私の作品をみなさんに読み解いていただき、ワークショップを終わりました。

写真について話をしよう

写真に限らず、見えることも見えないことも、見ようとすることからはじまるのかもしれないな、と改めて感じた一日でした。
参加してくださったみなさん、このような機会を与えてくださったみなさん、サポートしてくださったみなさん、この度は、本当にありがとうございました。
とっても楽しかったです!!!!!!

写真について話をしよう

仲田絵美

ヒタチオオタ芸術会議に参加して

みなさまこんにちは。
2014年のヒタチオオタ芸術会議にゲストアーティストとして参加させていただきました、東山佳永(とうやまかえ)と申します。

私が常陸太田とご縁を得たのは、レジデンスアーティストの林友深さんのお誘いが始まりでした。
その日に別件の仕事が入っていたのですが土地に根付いて一生懸命活動をしている彼女の姿勢と会場である菊池さんのお家/そこに住まわれていたサクおばあちゃんのクラフトの写真を見てすぐに引き込まれ、参加することにしました。

わたしは普段、踊り手や美術、言葉など媒体を問わず活動しています。
今回ヒタチオオタ芸術会議では”パフォーマンス作品を”と依頼されたので、まずなにをすべきか考えるべくリサーチに行きました。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

すると会場である”高台の菊池さんのお家”には住まわれていたサクおばあちゃんが生前につくったクラフトの数々や
地域の方の陶芸品、津田翔平のインスタレーションが、すでに設営中で、舞台(空間)はほとんど出来上がっていました。修理され大切に使われてきた家そのものの空気がアーティストたちによって蘇っていました。

その舞台に身を置き、わたしがやるべきことはそこで繰り広げられるストーリーだと感じました。
舞台に添える物語。
一番適していて映える物語は、そこに住まわれていた方の人生の物語だろうと思ったのです。
その場に生きた人のドキュメンタリー。
それを見にきて下さったかたに新たな視点で感じてもらうこと。
土地の方々とアーティストが日常的に良い関係を築き、繋がっている常陸太田では、パフォーマンスといっても、ただ踊りをみてもらうとか単純なことではなくてもっと広義の存在としてのパフォーマンス―この物語はみなさんに体感してもうらうべきだ…とその方法を考え、作品にしたのです。

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ヒタチオオタ芸術会議に参加して
『菊の花に蝶が舞う』
2014

秋に咲く美しい花。
菊は仏花としても使用される。天を仰ぎ、死者にたむけられ、あちらとこちらを繋ぐ。
お墓で供えられた菊に戯れる蝶をみる度、先祖や黄泉の国からの使者のような気がして、世界が繋がってるように感じていた。

ここの家の最後の住人である菊池サクさんは、今年の3月に亡くなった。
サクおばあちゃんもいなくなり、ほとんど使われなくなってから、このお家は急激に老化していっただろう。
家も呼吸し、生きている。住む人の空気が染み渡り、表情を変える。

この家はもう使われていないが
ただ、ここには住んでいたおばあちゃんとご一家の残り香が今も色濃く漂う。
その残り香と家が今も愛おしく思われていることを鮮明に感じると、その人が住んでいた風景を想像する。

サクおばあちゃんは、キク科のコスモスの花が大好きだったという。
今年も秋花が咲き、蝶がやってくる。
菊の花に蝶が舞うように、あちらとこちらを行き来してみたいと思う。
常陸太田に、水府に、この家に生きたおばあちゃんの人生を追体験し、ここに生きた人と家の姿を味わってもらいたい。そうしたら今日、あの頃の風景が蘇るかもしれない。

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それで作品は、というと
こんな様子▼

参加するみなさんにおばちゃんのコマを作ってもらって、生前おばあちゃんが着ていたかっぽうぎを着ていただくと参加でき、孫に扮した私と行う菊池サクさんの人生ゲーム。

玄関を入ると、サクさんとのぼるさんの写真、その前に顔の書いていない人形『こちらの人形に割烹着を着た菊池サクおばあちゃんを一体描いて下さい。』とあります。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

その次に本当にサクさんが使っていた割烹着があり『割烹着を着て下さい。おばあちゃんになったら、こちらへどうぞ。』とあり、その奥が会場の部屋になっています。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

その部屋の畳は床から一段上がっていて非日常と日常の間。少しだけ空のサクさんに近い。
参加者はそこに机を囲んで座ります。
浮かんだ畳の上で、複数のおばあちゃんが机を囲む、不思議な光景。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

机の上には水彩画で描いた菊池さんちに、透明なシートを重ねお家の中から空へと進む人生ゲームが。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

それぞれにつくっていただいたサクさんのコマをスタートに置いて、始めます。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

マスにはサクおばちゃんとのぼるおじいちゃんの本当の日常のエピソードが書いてあって、サクおばあちゃんとしてゲームを進めるお客さんは、おばあちゃんを演技しながら実際にそのことを体験していきます。
これは演技の動機を利用した作品でもあります。

例えば、新しい家が建った記念に息子と写真を撮る
とか
孫にお小遣いをあげる
ヒタチオオタ芸術会議に参加して
とか
坂道で転んで、動けなくなる(一回休み)
ヒタチオオタ芸術会議に参加して
などなど…

進んでいくにつれて、老いていきます
若いころの走馬灯を見るというマスで、
私が若いころを想像しながらおばあちゃんになり、お庭でパフォーマンスしたり
ヒタチオオタ芸術会議に参加して
天国のおじいちゃんとテネシーワルツを踊ったり…

最後のゴールは天国の雲の上。
”天国で息子からの手紙を読む”
というマスです。

これは、私が息子さんにサクさんのこと思い出したことがあれば、
なにかメモしておいて下さいと頼んでいたら、
レクイエム と題して書いていて下さり、
サクさんが一番喜ぶ、こんなによい捧げものはほかにはない、
その愛情に感動してクライマックスに朗読させていただきました。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

3月に亡くなったサクおばあちゃんが住んでいたお家が舞台だった今回。
息子さんご夫婦、菊池さんご一家からサクおばあちゃん、のぼるおじいちゃんの話を、水府に生きる人の人生を教えていただきリサーチした内容に流れを描き、おばあちゃんの人生を追体験するような作品をつくれたのは自分にとっても、現代美術の中で取り組んでいる物語性、”ドキュメンタリー”に向き合う良い機会でした。

息子さんご夫婦がサクさんのことを思い出していく瞬間に立ち会えたこと、お孫さんとの会話、ご家族と関わる地域のかた、つくってくださった料理、残されたひとつひとつのモノたち、全ての物に注がれる愛情がほんとうにあたたかくて、いつのまにか家族になったような時間でした。
心の中にほんわかとあの時間が残っています。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

普段土地のことや場所性をまずリサーチするところから始めるのですが、
今回は、サクさんの人生を通して家のこと、土地のことを知っていきました。
住んでいた人々の空気が染み込んだお家も、家族の美しい想いも、
作品を通して、昇華して感じてもらうことができていたら嬉しいです。
ヒタチオオタ芸術会議に参加して

常陸太田の皆様、本当にありがとうございました!
愛を込めて。◯

東山佳永

津田翔平「閾」についての雑記

ディレクターのミヤタユキから作品を振り返ってブログを書いて欲しいと言われたので人生初のブログ(雑記)を書いてみます。誰に向けて書く訳でもなく、生前身の回りで起きた出来事を淡々と書かれていた菊池さん家のおじいちゃんの日記に敬意を。そして短い間ながらも、その日記が書かれた場所で過ごすこととなった素晴らしい日々に感謝を。

津田翔平 『閾』についての雑記

10月の「ヒタチオオタ芸術会議」からあっという間に三ヶ月が経った。イベントが終わりすぐに11月には木津川アート2014(京都)では東山佳永と二人での共作を発表。9月に展示したまつしろ現代芸術フェスティバル(長野)から三ヶ月続いていた展示ラッシュは落ち着いて、そのせいかなんだか落ち着かない。滞在制作する度に場所に対する愛着が生まれ、年末年始はここで過ごそうかと思うほどに第二の故郷が増えるような感覚になる。しかし戻るは我が故郷、ノイジー東京。同じようなパートタイムジョブを繰り返しつつも、映像を撮影したり、音楽のアートワークを制作したり、展示プランを練ったり、人生プランを練ったり、いつのまにか歳を重ねたり、ふわっと子供に戻ったり。経て、経て。

そんな日々を過ごしている間にも常陸太田の高台の菊池さん家では自分の作品がまだ残っていることをふと思い出す。「常設展示」という形は初めての事だけど、その場所はギャラリーでも美術館でもなく紛れもなく人の家の居間。「常設」でも「展示」でもなく、あわよくば遠慮することを諦めもうすこし此処に居させて下さいお願いしますと「居候」しているような形だ。解体した床材を空中に吊るすために使用した手芸用紐リリヤンは重力に逆らえず時間と共に引き伸ばされ、いづれプチッと切れるだろう。それまでの時間。その状態は悪く言えば「停滞」/良く言えば場所に「定着」し始めているだろうか。どちらにしても作者本人が離れた今もなお空間に佇み当然のように地元の方々が団欒する光景があるという事実は、ある一定期間の展示で仮設的かつ即興的にインスタレーションを作ってきた身として今後の制作スタイルと意識する時間軸に大きく変化を及ぼす経験だ。作品の前で甘酒を楽しむ光景を誰が想像しただろうか。

津田翔平「閾」についての雑記

(写真:数ヶ月後、常設された作品とその前で団欒する地元の皆さん。FBページ『今日のこしらえる人』から転載)

作品のことを振り返って書こうと思うと作品以外のことを書くことになってしまうほど、作品制作=高台の菊池さん家で起きた出来事そのものだった。制作から数ヶ月経ったいま、制作前、制作中の事を写真と共に振り返りたい。

津田翔平「閾」についての雑記
家まで続く坂道の曲線、丘に咲くコスモス、高台から見える景色、既にここにある全ての物事が刺激だった。

(写真:制作前に「高台の菊池さん家」を撮影したもの)

 

津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記
津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記

展示会場は「高台の菊池さん家」。滞在制作といっても自分の作品を作るだけではなく、この家に住んでいたおばあちゃんの手芸品や地元の方々の陶器を同じ空間で展示するという会場構成を考える所から始まる。他のアートイベントではあり得ない無茶振りとも思えるような依頼に今まで感じた事のない興奮を覚えた。おばあちゃんの手芸品を飾ったり、畳を宙に浮かしたり、陶器に光をあてたり、と自分にできることを考えた。経年劣化と共に建物全体は歪み、住む人が居ないために立て壊す予定だった「高台の菊池さん家」に10日間、滞在し、介在した。

津田翔平「閾」についての雑記
(「陶水会」の皆さんと 思い思いの陶器を囲んで)
津田翔平「閾」についての雑記
(おばあちゃんの手芸品 紙で作られた人形たち)
津田翔平「閾」についての雑記
(おばあちゃんの手芸品にも使用されていたリリヤン)
津田翔平「閾」についての雑記
(解体した床材をリリヤンで吊り始めたところ)
津田翔平「閾」についての雑記
(おばあちゃんの人形を引き連れた母の様なミヤタユキ)
津田翔平「閾」についての雑記
(畳二畳を浮かすため解体中の大工の政也さん)
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(浮いた畳の上で思考中の東山佳永 いい風が吹いた)
(頑張り過ぎで気絶中の佐藤慎一郎 おつかれさま)
津田翔平「閾」についての雑記
(おばあちゃんのチラシの蝶を見ながら制作中の林友深)

見たことのない風景を想像することからもう一つの物語が始まる。何を作るかという問いよりも先に、どんな家だったのかをご家族の政子さんに聞いた。そしてかつておばあちゃんの寝室だった和室の天井に、おばあちゃんの手芸品を一つ一つ手に取り、飾り始めた。それらが微細な空気に触れ光がゆるりと回るたびに、全体の舵を取ってくれているような気がした。 何を作るかという問いはさほど問題ではなくなり、手芸品や陶器と共に「この家でどうやって一緒に暮らそうか」という思考回路になっていた。

おばあちゃんの手芸品、地元の方々の陶器、子育て支援マスコットのじょうづるさん、林友深のグラスデコ作品、ミヤタユキの鯉のぼりを使った作品、東山佳永のパフォーマンス、そして自分のインスタレーション。お互いが主張しすぎれば到底カオスから離れられないという状況の中、「高台の菊池さん家」ではごくごく自然と、それぞれがただ波となって同じ場所で出会うことができた。
津田翔平「閾」についての雑記

(写真:制作中の会場風景 全体)
・右側の和室では、部屋中央の畳二畳を浮かすため大工の政也さんが解体&再構築中
・左手前の和室では、コーディネーターの佐藤慎一郎がおばあちゃんの手芸品を設置中
・左奥の洋室では、ミヤタユキがおばあちゃんの人形を回すための回転台を制作中

この家に来た時には家中の建具は処分されていて、むしろそのことが吉と出る。つまり部屋の仕切りが元々無かったことがそれぞれの作品をフラットに繋ぐ一つの要素になった。この事は作品タイトルを『閾』にしたきっかけでもある。

さらに玄関入って正面にある居間では、菊池さんご夫婦の手により傷んだ畳は半分ほど剥がされ解体され始めていた。かつて掘りごたつやテレビがあり家族が団欒していたであろう居間。私はこの部屋で床下の地面が丸見えになるまで剥がすことを進めながらも、またそこに戻していくことを繰り返す。解体業者でも修理業者でも改装業者でもなく、その中間を彷徨いながらの解体/測量/再構築。おばあちゃんが手芸で使っていたリリヤンという紐を使い、居間の床材をビーズ代わりに空中で留めていくという作業を自分の身体が入れなくなるまで続けた。

津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記
津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記
津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記
(写真左上)制作中。部屋中に散らばったリリヤンと解体した床材。
(写真右上)制作中。おばあちゃんに見守られているような気持ちになった。
(写真左中)外の光が綺麗で窓を開けた。この瞬間から作品全体の流れを掴み始めた。
(写真右中)ふと家の外に出ると近所の方々が集まって庭の手入れを手伝いに来ていた。
やってることは全然違うけど自分たちの活動も長い間続けて突き詰めたらこういう事になるかもしれないと思った。
(写真左下)展示前夜。吊るす床材も紐も残り僅か。身体が入る隙間も無くなってきた。
(写真右下)居間の窓。蜘蛛の巣に引っかかった風鈴と、外から続くように繋いだ数本のリリヤン。

窓の外には使われなくなった古い小屋、蜘蛛の巣に引っかかった風鈴、腐って捨てられた畳。
進んでいるような、戻っているような、まさに、今、その途中。

ミヤタユキが「この場所を使いたい」と言った時点から家が少しずつ動き出していた。

おばあちゃんが毎日往復していたこの家の坂の途中で立ち止まり遠くの山を眺めていたら坂はどちらに向かうかで登り坂にも下り坂にもなるんだなと当然の事を感じた。

展示が始まり、沢山の人がその坂を登り、「高台の菊池さん家」に集まった。

津田翔平「閾」についての雑記 津田翔平「閾」についての雑記
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おばあちゃんが生きていたら、作品のことをどんな風に語っていただろうか。
おじいちゃんが生きていたら、ここで起きた出来事をどんな風に日記に書いていただろうか。

お二人が生前過ごされた家で、お二人が残された空気に触れ、時を超え同じ場所に居られたことが幸せでした。

最後に、制作中の自分の写真/作品についてのテキスト/作品の記録写真、を載せて人生初のブログを終わります。
人に伝えるデスマス調ではなく長い一人言のような拙い文章を最後まで読んでくださりありがとうございました。

おばあちゃん、おじいちゃん、菊池さんご夫婦、ご家族、ミヤタユキ、友ちゃん、慎くん、佳永ちゃん、政也さん、 なるさん、仲田さん、 根本さん、陶水会の皆さん、じょうずるさん、そして常陸太田の方々、展示を観にきて下さった方々、ありがとうございました。自然と溢れ出る優しさとエネルギーに満ちた時間を忘れません。

またお会いできる日を心待ちにしています。
ありがとうございました。

津田翔平

津田翔平「閾」についての雑記

作家:津田翔平
題名:「閾 – liminal / subliminal – 」[2014]

手法:即興建築、ミクストメディア、インスタレーション
素材:手芸用紐(リリヤン)、解体した廃材(根太、床板)
場所:高台の菊池さん家/常陸太田(茨城)

経年劣化と共に建物は歪み、住む人が居ないために立て壊す予定だった家。既に居間の床板は腐蝕し解体され始めていた。かつて掘りごたつやテレビがあり家族が団欒していたであろう居間。私はこの家に残された手芸品に触れ、共通して使われていた手芸用の紐でビーズを通す代わりに解体した床の廃材を空中に留めていく行為を繰り返す。窓の外には、やがて土へ還る畳と、蜘蛛の巣に引っかかった風鈴。生起と消失/乖離と統合の境界を彷徨い、解いては結ぶ時間。閾を問う。

【閾(いき)】
門戸の内外の区画を設けるために敷く横木(蹴放・けはなし)、敷居を意味する。または、光や音などの刺激を量的ないし質的に変化させるとき、ある点を境にして気づかれ、あるいは気づかなくなる、その境目にある刺激の強さ。すなわち人の意識が現れたり、現れなかったりする境目を意味する。ある特定の反応がそれとは異なった反応へと(またはある経験がそれとは異なった経験へと)転換する現象をさす。

コメント:
私は東京から常陸太田にある「高台の菊池さん家」へ来ました。会期が始まるまでの10日間、自身の作品構想を練ることと同時に、この家に住んでいたおばあちゃんの手芸品や、地元の方々の陶器、それらを一つの家で展示(同居)するための全体構成を他のアーティストやコーディネーターと共に考えました。それまで知らなかった土地に、それまで知らなかった人に、それまで知らなかった人の家に、それまで知らなかった人の作品に、触れるということ。さらに無意識的に触れ方が変わり続けているということを意識すること。その間を行き来すること。

山と川、月と星、朝と夜。車の音と光、24時間営業ではないコンビニ、電波の繋がらない携帯電話、窓越しに挨拶するご近所さん、人の優しさ、自分の為に作った器、誰も住まなくなった家、その家に住みはじめた私達、家族という言葉の曖昧さ、優しい顔の遺影、92年という時間、往復し続けた坂道、おばあちゃんの好きだったコスモス、何も言わずに入ってしまった玄関、解体途中の居間、捨てられない物が残る台所、寝室だった和室、リフォームされた洋室、物が無い押し入れ、おじいちゃんの木彫、蜂の巣と化した雨戸、竿だけ残された軒先、磨りガラスの光る窓、消えた襖と障子、剥がされた畳、歪んだ家、浮いた景色、蜘蛛の巣に引っかかった風鈴。

私の身の周りで起こるあらゆる出来事が刺激となり、肉体と精神を動かしました。
アートと呼ばれるもの/アートと呼ばれないもの。

その間。その境。その閾を問い、閾を超えて。

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津田翔平|Shohei Tsuda
1986年 東京都出身
芸術家/実験建築家/ノイズレーベル主宰/アートディレクター
所属: IN/AWT | KYO-ZO | UNNOISELESS | shrine.jp
空間に於ける個人の存在を探究する実験や、既にそこに在る事象を志向/拡張することで意識と無意識を反転させる作家。多次元空間を紡ぎ出すかの様に制作された作品群には一貫して解体/測量/再構築といわれる建築的要素が含まれている。インスタレーション・グラフィック・映像・音楽等、表現の媒体は問わず幅広く活動。ノイズレーベルUNNOISELESS 主宰。
個人の制作の他に、踊り手/美術家・東山佳永とのユニット「東山佳永と津田翔平」としても活動。
IN/AWT(安藤透、渡辺俊介、津田翔平)では映像を主体とした企業との共同制作。
KYO-ZO(可変ユニット)では空間においての個人の存在を探求する実験作品を展示。
2012年12月、音楽家dagshenmaと共同でノイズレーベルUNNOISELESSを設立。
2014年5月から、京都の老舗レーベルshrine.jp iTunes月刊リリースのトータルデザインを担当。
Shohei Tsuda
www.shoheitsuda.net
UNNOISELESS
www.unnoiseless.net

「いちまいばなし」を実演した佐藤悠と申します。

佐藤 悠

常陸太田アートミーティングで即興物語作り「いちまいばなし」を実演した佐藤悠と申します。
思いがけず参加者の皆さんが大変楽しんで下さったようで、
様々な所から当日の盛り上がりについて話を聞くごとに嬉しさを感じています。

この活動は、司会の私が参加者にリレー形式で話の展開を聞いてゆき、
その展開を1枚の紙に絵を書き加えてゆきながら1つの物語を作ってしまうという物で、
実際やってみるとよくわかりますが、
往々にして支離滅裂、荒唐無稽な物語がその場で出来上がり、
それぞれの参加者の発想や感覚がどれほど異なっているのかという事が露わになります。
いきなりこの活動に巻き込まれた参加者が、
他の参加者の想定外の発想に翻弄されながらも、
その異物や異界をどう受け止め、
おもしろがる事ができるかということがこの活動の大きなテーマとなっています。

理解し得ない状況にどう向き合うのか?
常陸太田で今起ころうとしている「アートプロジェクト」と言われるものの大きな役割も、
ある状況に対して共同体としてどのように向き合ってゆくのかをアーティストと参加者が共に考え、
そこで生まれた新たな向き合い方を継続的に実践してゆく場をつくる事にあります。
重要なのはアートやアートプロジェクトが
何かしらの問題の抜本的な解決策を授ける魔法の様な物ではなく、
あくまでも「向き合い方」の可能性を探るためのひとつのツールでしかないという事です。
答えではなく、答えの探し方を共に考える事、
それがアートプロジェクトの役割なのです。

「いちまいばなし」は、そんなアートプロジェクトが実践している試みを非常にインスタントな方法で、
場所や時間の制約をそれほど受けずに疑似体験できるプログラムとして行っています。
物語作りの中で他者と自己の決定的な違いを実感した上で、
自分は他者と今現在どう向き合っているのかを再確認し、
さらにこれからどう向き合い得るのかという事を試行する。
その過程が「いちまいばなし」なのです。

破壌した物語の世界を参加者がどう引き受けているのか?
「いちまいばなし」でのそのひとつの指標となるのは会場の笑い声です。
面白い!と思った時に思わず出る笑いは、
この状況を自分の中に受け入れたというサインとして、
言葉を介さずに会場で物語の共有の雰囲気をつくる大きな要素となります。
今回の常陸太田の実演では、
予想以上にこの笑い声が大きく多層的だった様に思います。
町会や役所の関係者も、NPOの方も親子連れも、世代を超え、性別を超え、立場を超え、
様々な場面で会場を交錯するように笑いが起こり、要するによくウケました。
この「笑い」と言うのも不思議な物で、
実際舞台に立っていてこんな事で笑わせている自分がすごいのか、
こんな事に笑う事の出来る参加者の方がすごいのかよくわからなくなる時があります。
会場があれだけの盛り上がりを見せたのは、私だけの力ではなく、
あの場に集まった参加者の皆さんの「向き合う」気持ちや能力がすでに
どこかしら開いていたからではないかと私は思っています。
アートミーティングと銘打ち、
初の披露会の中で出会った方々からそのような反応が垣間見えた事は、
今後のプロジェクトの展開において非常に貴重な事に思えます。
荒唐無稽なイメージの羅列が、
参加者の受容によって物語として昇華されてゆく「いちまいばなし」の様に、
場に集う人々の「向き合おう」という気持ちが発端となり、
この活動が新たな地平へ発展してゆく事を願っています。

佐藤 悠(sato yu)

一見何も無いところから、誰かが関わる事で表現が紡がれてゆく現場を作っています。
Webサイト:http://yusatoweb.wix.com/yusato

1985 三重県生まれ
2011 東京芸術大学先端芸術表現科修了 現在同博士課程在籍
主な展覧会、参加企画等
2009「六本木アートナイト」出展(ホテルアイビス/六本木)
2012「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」出品(十日町市/新潟)
2012「黄金町バザール2012」参加(黄金町/横浜市)
2013「東京インプログレス リバーサイドツアー」参加(隅田川/東京都)

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Workshop:アートミーティング in 常陸太田

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