10月13日から始まる『常陸太田市美術協会 10 周年記念展』と同時開催の『チャリティ小作品展』に出展する作品を作っている。
(このチラシ、常陸太田の「田」に焦点を合わせるところがオツね!)
昨日と今日で3作描いたが、描き途中。
作品てなんなのか。このハートのやつなんなのか。何描くのか。なんで絵描いてるんだっけ。てなった。
そうなっちゃうと迷ってしまう。行き詰まってしまう。
一息ついて先日庭を草引きしたときの乾いた草をゴミ袋に詰める作業をはじめた。
これが1人でやると結構かかるんだな。おっきな袋、4個分になった。
やっとゴミ袋に詰め終わったところで、もう生えはじめている雑草引きにとりかかった。
まったくすごいんだ。雑草は。クローバーちゃんはさ。
根がぎゅうぎゅうにひしめき合って地面にへばりついてる。
なんというネットワークだ。
これは刈り払い機では刈り取れない。手作業でしか摘めない。
草引きをしている時、人は無言になる。
絵を描いているときみたい。
一心に地面と向き合う。
草引き、それは瞑想だ。
根が残るとまた生えてきてしまう。
頑固に強く絡み合いながら張り巡らされる根をいかに綺麗に根の先まで摘み取ることができるか。
この作業には知恵と対話が必要なのだ。
心が鎮まり、思考は深まり、肉体が日常と切り離されていく。
そんなとき心を乱すのが蚊だ。
せっかく神経を集中して瞑想に入っているのに、すかさず邪魔をしてくる。
さながら煩悩である。
かゆい、うるさい、不快な音。ぷうーん。ぷうーん。
しつこくつきまとう煩悩に効果抜群なのは蚊取り線香である。
お香をまとって煩悩を退け、ひたすら瞑想に励む。
これが草引きである。
草引きをしているとき、ほんとに色んなことを考えた。
大事な時間だね。
アートとか絵を描くとか。
作るというのは原始の記憶ではないかと思った。
だって今は家も家具も器も作らず買える。
私は庭を持って初めて草引きを体験したみたいに、マンションの人には草引きは縁遠い。
草引かないから草引きによる瞑想や気付きは体験できない。
そんな感じで沢山の「手仕事」が遠ざかっている。
それは「瞑想」の時間が遠ざかっているってことでもある。
時間に追われて仕事中心に生きなきゃいけないから、離れていく手作業。
その中の1つが「作る」ことじゃないかなと思う。
絵を描くこと、それは当たり前であるべきなのかもしれない。
絵画を中心に生活しないといけないと思っている。
私はとにかく絵を描きまくるためにここにいるのだ。
要するに、それを許される環境なのだ。
全てを絵で表現し、絵で共有し、絵で対話を試みてみよう。
それが私だけの絵画表現になっていくんじゃないかと考える。
私なりのアーティスト・イン・レジデンスにしたい。
アイデア、打ち合わせ、全部絵になってしまうのだ。
ああ。絵が迷いまくっている。辛いぜ。
自我を否定するのも肯定するのも違うんだ。
描いている時は自我にとらわれてちゃ不自由なんだ。
なんで描くんだ。どうやって描くんだ。
人と話すと、実は整ったりする。
見えてきたりする。
私とはなんなのか、私の口が勝手に喋り出すと思う。
何を描きたいのだ。